みなさんがよくご存知の「ぷよぷよ」というゲーム。
1991年に誕生した「ぷよぷよ」は現在も多くの人に愛され新作のゲームも開発されるほど。
そんなぷよぷよを開発した仁井谷正充さんを皆様御存知でしょうか。
・ぷよぷよで億単位を手に入れ、ぷよぷよで会社を倒産させた。
・学生時代は広島大学理学部に7年間在籍したのち中退した。
・自社のゲームでラスボスの声を担当し、ラスボスに百万円かけてなりきった。
・また倒産をネタにしたかのような、CD楽曲を発売する。
などの伝説(?)を持つ彼。
そんなに仁井谷正充さんについていろいろご紹介したいと思います!!
仁井谷正充さんの詳しいプロフィール!
(左)
名前:仁井谷正充(にいたにまさみつ)
生年月日:1950年2月10日
出身地:広島県
1982年、広島市南区京橋町にコンパイルを設立。
一人でパソコンのシステムソフトの開発を始め、初めて開発したゲーム用ソフト『N-SUB』が好評で、その後もビリヤードゲーム「ルナーボール」などヒット作を連発しました。
1991年の創業9年目に開発した『ぷよぷよ』が後に爆発的ヒット。
この頃には自らイベントやメディアへたびたび露出し風変わりなキャラクターからゲーム業界の名物社長として有名人となりました。
ですがコンパイルは『ぷよぷよ』に次ぐヒット作が出せず、鳴り物入りで発売された『パワーアクティ』の失敗や社員の人件費、不動産費、過大な宣伝費用の投入などの仁井谷さんの経営ミスにより1998年に倒産してしまいます。
2002年にはコンパイルは破産宣告を受け二度目の倒産。
翌年、有限会社アイキに権利を譲渡するとコンパイルは解散しました。
仁井谷自身も多額の負債を抱えており、自己破産しています。
ぷよぷよ登場までの仁井谷正充さんの経歴!
1950年2月10日に広島で生まれた仁井谷さん。
私立三原幼稚園入園する時期に実家の飲食店がお好み焼き店になります。
そして三原市立三原小学校に入学するときはお好み焼き店から貸本屋へ。
そして三原第三中学校入学に入学し広島県立三原高校へ進学。
大学は数学が得意だったので、科学者になりたいと思い、地元の広島大学を受験します。
大学に入ったはいいが、実用性のない勉強に失望し学生運動とギターとアルバイトに没頭したようです。
1972年に私塾を始め1976年に7年間在籍した広島大学を中退しました。
その後広島電鉄の車掌など職を転々したのち1982年「コンパイル」を設立。
1年目はゲームの仕事はなく2年目からやっとセガのOEMの仕事が入るようになります。
最初はプログラムから音楽までをすべて1人で作成したそうです。
365日24時間会社に寝泊まりし、みんなで食事を作ったりと合宿のような毎日を送ったようです。
そして1991年「ぷよぷよ」が発売され爆発的ヒットになります。
(最初はあまり売れませんでしたがスーパーファミコン版で大ヒット)
ちなみに、「ぷよぷよ」がヒットする直前とかは、会社の経営もけっこう苦しい時期があったりもしたらしいです!
ちょっと変わっているところがあったが気さくな人がらで、コンパイル時代は人気有名社長の一人になりました。
その後はプロフィールでも説明したように鳴り物入りで発の人件費、不動産費、過大な宣伝費用の投入などの仁井谷さんの経営ミスにより1998年に倒産してしまいます。
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ぷよぷよの誕生秘話!現在の仁井谷さんは?
当時流行っていた「テトリス」や、「ドクターマリオ」に刺激を受け、「ドミノが上から落ちてきて、4つ揃ったら消える」という、「ドクターマリオと同じルール」の企画が会議であがり「ぷよぷよ」の開発がスタートしました。
ただ、「ドクターマリオ」に似ているため任天堂から『パクった』と言われてしまうと考えた仁井谷さんは「ぷよぷよ」を任天堂から出してしまおうと思いつきます。
当時、ファミコンのディスクシステムが落ち目で売れなくなっていた時代だったことに目を付け、任天堂に企画書を提出。任天堂も企画が欲しくて利害が一致したそうです。
ぷよぷよは「パクリだけどセーフ」な状態で世に送り出されることになりました。
そんなぷよぷよで大成功を収めた仁井谷さん
全盛期は運転手付きの車だったのに現在は6段変速の自転車が壊れていて4段しか使えない自転車を利用しているそうです(笑)
そして千葉県内の「家賃5万円」「2DKのアパート」に住み、警備員のアルバイトで生計を立てながら一人で新たなゲーム『にょきにょき』の開発に取り掛かっているそうですよ!
まとめ
現在65歳の仁井谷さん。
現在もゲーム制作を続けているようなのでまた爆発的大ヒットの期待したいですね。
ツイッターなどネットの方ではちょこちょこ登場しているようなので気になる方はチェックしてみてください♪
では最後まで読んでいただきありがとうございました。